戦国時代を巡る旅 岐阜編(5) 続・関ヶ原ウォーランドで戦国ごっこ!

関ヶ原ウォーランド
島左近より凛々しい普通の武士

舗装された道があるのだけど、あえて兵士達の中に入って写真を撮ってみる。
島左近の転んでいるのを横目に石田三成陣をどんどん進んでいく。
守りの兵士が強そう。

 

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一応、奥が石田三成です

そして石田三成の陣に到着。奥にいるのが石田三成。
豊臣家の安泰と後継者である秀頼を守るべく、奮闘したものの最期は六条河原で処刑されました。
まじめ一徹で賢いイメージだけど、関ヶ原の戦いの時に東軍に味方しそうな武将の妻子を人質にしようとしたところはいただけない。
三成びいきの滋賀県人の友人も「それだけはね・・・三成のダメなところなんだよね・・・。」と言っていました。

 

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こんなところに黒田長政

東軍の参謀。
父は秀吉の側近だった黒田如水。なのに徳川家康率いる東軍に参加。
小早川秀秋の裏切り工作に活躍しました。

それまでよくわからなかったんだけど、このあたりからだんだん「この配置は関ヶ原の合戦の実際の布陣をあらわしている」ということがわかってきました。

 

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馬が凛々しい細川忠興

細川忠興というのはよくわからなくても細川ガラシャの夫といえばピンとくるはず。
石田三成に人質に取られそうになったガラシャは人質となって忠興の負担になってはと、お伴の者に胸を突かせて自害したと伝えられています。
忠興は千利休の七高弟の一人という文化人。
元首相の細川護熙(ほそかわもりひろ)のご先祖様にあたります。

・・・馬が躍動感あるなぁ。

 

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こんな顔だったっけ?本多忠勝

超凛々しいお顔なんだけど、そもそもこんな顔だったのかはわからない。
関ヶ原の戦いに参戦した時は兵はわずか500。
それでも目の前を敗走した島津軍を勇猛果敢に追撃したと言われています。
生涯で数多くの合戦に参加したものの、一度もかすり傷ひとつおわなかったという武将だったそうです。

時代劇ではone of themの扱いだけど、本多忠勝ってすごいのね。

 

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とても閑散としている徳川家康陣

東軍の徳川家康陣の床帳場へ。
なんか閑散としている
右端に黒田長政、左から二人目は「井伊の赤備え」で有名な精鋭部隊をもっていた井伊直正。

家康様の向かいにひれ伏して、写真を撮りたくなります。
・・・それを狙って配置してあるな

 

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家康 首実験中

「厭離穢土欣求浄土」の旗印が。
「おんりえど ごんぐじょうど」と書かれています。
乱世は穢れている。その汚れた世を厭い、離れて永遠に平和な極楽浄土を願う、といった意味のようです。

首実検とは。敵将の首をとってきたら大将の前に差し出し、どのくらいすごい人間を仕留めたかの確認会です。
これで恩賞が決まるわけだから重要な場なのです。

 

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首。運んでいます・・・。

ちょっとすごいコンクリート像達なのでお見せできるのはここまで。
関ヶ原の合戦では徳川家康の東軍は加藤・伊達・黒田の諸大名を含めた約10万人、西軍には毛利・宇喜多・上杉・島津など約8万人もの人が戦ったというから「本当に打ち取ったのか」という確認もものすごいことになったのでしょう。

 

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遠くから見るとこんな感じ

その「床帳場」をちょっと離れたところから見たところ。
ウォーランドはものすごい広いわけではないんだけど、けっこうな敷地であることがわかるかと。
奥にいるのは徳川家康でございます。

 

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遠くに吉川広家

西軍の武将がいた南宮山を模しています。
ここにいた諸侯は、意図した者、していない者含めて約30,000人。
結果としてまったく兵を動かさなかったのです。

左は吉川広家(きっかわひろいえ)。右奥にいるのは毛利輝元
吉川は大名ではなく、毛利家の家臣。
関ヶ原の合戦では西軍に加担した主君の毛利氏を抑えて裏で徳川と密約を結んでいたそうな。
徳川を背後から襲撃できる布陣でありながら、兵をまったく動かさなかったことにより、罰せられることもなく、毛利家を存続させたそうです。
もしこれで西軍が負けたら「裏切り者」ということだろうけど、策は当たっていた。ということですな。

 

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弁慶かと思った安国寺恵瓊

安国寺恵瓊は「あんこくじえけい」と読みます。
私はこの御方、まったく知らなかったんだけど、滋賀県人で歴史好きな友達はよく知っていました。
僧侶から大名になった人。
吉川広家の牽制で身動きがとれず、傍観者に徹せざるを得なかった人。
布陣でいうと、南宮山の東のふもとに陣し、東軍と戦おうにもすぐそばに吉川広家、後ろには毛利輝元。
動いたら自分がやられる・・・。
敗北を知るとすぐ戦場を離れ、最期は三成とともに京都で処刑されたそうです。

あれ?宇喜多秀家と島津義弘がいない・・・。
宇喜多は豊臣政権時の五大老。西軍最大の兵力で参戦したものの敗戦。
島津義弘はしぶしぶ西軍に参加したものの、あっさり諦めてその後の家康が勝った時のために備えるべく、なんと本多忠勝軍の目の前を敵中突破!
敗れたものの薩摩の領地には温存していた兵が10,000もいて、家康もうかつに手を出せず、領地すら没収することはできなかったそうです。

 

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関係ない伝説が・・・

「十九女池の美女と大蛇の由来」と看板に書いていありました。
ご丁寧に「この美女と大蛇は関ヶ原合戦に関係ありません」と書いてあります(笑。
・・・美女の姿はどこにもありませんでした・・・。

非常にシュールでよくわからない場所でした。
「B級スポット」と呼ばれるにふさわしい。
これってみうらじゅんと安齋肇の「勝手に観光協会」向きのネタだなぁと思っていたら。
やっぱりとりあげられていました
思った通り、コンクリ像と楽しく写真を撮ってましたよ。

●関ヶ原ウォーランド  岐阜県不破郡関ケ原町1701-6
入場料:大人350円、小人:200円、幼児:無料
営業時間:10:00~16:00
10:00~15:00(12/1~3/31の平日のみ)
関ヶ原駅から徒歩20分。タクシーのほうがよいかも・・・。

これにて関ヶ原編は終了~。
今度は開戦地の小西行長陣跡や小早川秀秋が陣取った松尾山、徳川家康が陣取った桃配山に行って各布陣を眺めていたいなぁ。

関ヶ原を後にし、滋賀県の長浜に戻ります。

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長浜城と小谷城の旅 INDEX

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