江戸時代からの名店で福島牛を味わう!
ふくしま新発売。という福島の名産物のPRサイトがあるのですが、ご縁があって、人形町の名店「玄治店 濱田家」とのコラボ企画「銘柄福島牛 日本料理の名店で味わう」という会にご招待いただきました!
ワタクシ、両親が福島県出身でして、夏休みになると「田舎に帰る」と言えば「福島県に行くこと」でした。
震災以来、福島に対する目はあまり暖かいものではないですが、こういった楽しいイベントに参加できるのは嬉しい。
しかも、ミシュランで料亭としては初の三つ星を獲得した(現在は二つ星)老舗「玄治店 濱田家」ですよ!!!
お店は人形町の駅を出てからすぐなんだけれど、老舗の料亭とはこういうものなのでしょうか?
地図上は大通りに面したところに建っているのだけど、お店の入口は裏側でした。
ひっそり入って行くという感じ???
でっ・・・でかいっ!なんだこの建物の大きさは!!!
横に長い建物の窪んだところに入口があり、その先にもまた建物。
この壁の色が同じ建物はすべて濱田家さんなのですっ!
濱田家の歴史について
そもそもの歴史のお話を。
「人形町」について
江戸時代の人形町は歌舞伎の芝居小屋の中村座、市村座があり、人形浄瑠璃の芝居小屋があった大繁華街。多くの人形師が住んでいたり、人形を売る店があったことから「人形町」と呼ばれました。
遊郭で有名な吉原は元は現在の人形町1、3丁目にあったのだけど、地名の由来は「葦(よし)が生えていた原」から名づけられたという説があります。地名は「葦原→芳原→吉原」と変わっていったようです。
なお、吉原はその後の明暦の大火(1657年)で江戸の町の大半が焼失したことをきっかけに浅草の裏の日本堤に移転しています。
「濱田家」について
「濱田家」の始まりは、花街だった芳町にあった置屋の「濱田家」。「置屋」とは、芸者の派遣元のこと。
生活の問題から「濱田家」の養女になった貞奴(さだやっこ)という芸者がいたんだけど、彼女はのちに伊藤博文や西園寺公望から贔屓にされたというスーパー芸者。のちに「オッペケペー節」で有名な川上音二郎と結婚し、「日本初の女優」として活躍することになるのだけど、置屋としての「濱田家」は明治末に廃業してしまいました。三田五三郎が1912年(大正元年)に料亭を開業する際に貞奴から「濱田家」の名を譲り受けたそうです。
Wikipediaによると、貞奴と三田五三郎は縁戚関係にあったようです。
幕末から明治から大正にかけての超有名人の名前がたくさん出てきて、それだけでも驚きなのです。
ちなみに現代の「濱田家」は有名人のご実家でして、ミシュランの星をとった時に話題になったけど、それはWikipediaで探してみてくださいな。
「玄治店」について
これも由来があって、江戸時代の人形町の歴史を調べていると必ず出てくる言葉。
ワタシも持っている中央区観光検定でも要チェックなキーワードです。
三大将軍の徳川家光が痘瘡(とうそう)を病んだ時に、幕府の御典医(ごてんい:おかかえ医師のこと)だった岡本玄治(おかもとげんや)が見事に全快させたことから有名人になり、ここにはその屋敷跡がありました。
岡本玄冶は幕府から拝領した土地に借家を建て、町の人達に貸したことからその一帯がまるっと「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の頃からとっても由緒ある場所だったんですね。
歴史好きとしては外せない場所なので、熱く語ってしまった♪
本編に戻ります。
濱田家に潜入!
東京のど真ん中にこんな「ザ・料亭」な建物があったのね。
大通り沿いではないので、ひっそりとしていて静かです。
案内の方が立っていなかったら、きっと表通りを探していたと思うので、たどり着けなかったわ。
憧れの濱田家。
予算として、お昼は安くて¥15,000~、夜は¥25,000~ですよ。自力じゃ無理だ!
お店の中に入ると大きな広間が。50~60人くらいは収容できるな。
東京では数寄屋風建築の料亭は2軒ほどしか残っておらず、とても貴重な建物だそうです。
空襲でやられてしまった後に再建されたというものの、それでも築約65年!
一枚板の天井板が連なり、ものすごく手がかかっていることがわかる。
建築物好きにはたまらんわ~
<続く>
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