養老の滝周辺でランチをした後、関ヶ原に行った勢いでガイドブックに載っていた「関ヶ原ウォーランド」に行ってみようということに。
地元の人でも「名前は聞いたことあるけど行ったことない」という。
どんなところなんでしょう。
これは入口を入ってすぐのところです。左側に武具甲冑資料館の入口があります。
実はこの資料館。ここが一番の見どころだったのかもしれません。
熊毛の甲冑やら武具など、とにかく古めかしいものがたくさん。
撮影禁止だったので写真は撮れなかったのが残念。
武具甲冑資料館を出たところにあった何かの入口。
中には関が原の合戦の布陣や登場人物がパネルで紹介されていました。
入口の左側にある馬のコンクリート像からして怪しさ満載・・・。
これが今回の旅での一番の衝撃。
友達が大興奮しながら呼ぶので何かと思ったら武田信玄だ!
武田信玄って関が原の合戦の時にはもう亡くなっていたじゃん!と思ったら横に奇妙な立て看板が。
「武田信玄の亡霊じゃ!!もう争いはやめい!ノーモア関ヶ原合戦じゃ!」
これは歴史好きにはたまらない。ありえないシチュエーション。
ありえなさすぎて超シュールです。なんじゃこりゃ!?
武田信玄のお迎えの次には「巧妙が辻」に出てくる山内一豊です。
ま・・・まぁ、山内一豊は関ヶ原の合戦には出てたな。
確かこの戦が初陣だったかと。
・・・またがっているのは妻の千代が大枚はたいて購入した駿馬の「大田黒」?(困惑)
何を狙っているんだかわからない鉄砲隊。
なんなんだこの世界は!?
反対側に行って撃たれる演技をして写真を撮りたくなる。
ここにあるコンクリートの人形。
後から知ったんだけど、有名な岐阜県出身のコンクリート作家である浅野祥雲という方の作品なんだそうです。
リアルなんだけどどことなくユーモラスという作風が持ち味なんだとか。
B級スポットとして知る人ぞ知る愛知県の犬山の「桃太郎神社」のコンクリート像もこの方の作品だそうです。
どんどん進んで行きます。
おっ。関ヶ原合戦で勝敗を決めるきっかけとなった小早川秀秋ではないですか。
有能な武将ではなかったようだけど、関ヶ原の戦いでは15,000人の軍勢を率いていたため、この人がどう動くか!?が鍵だったようです。関ヶ原の南西にある松尾山に陣取っていました。
ウォーランドの小高い丘(松尾山を模している)から眺めています。
徳川家康方の「早く態度を決めろ」というプッシュの銃撃によって東軍の家康方につくことを決め、軍勢500の大谷吉継軍に向かっていったという。
まさにそのシーンの再現。のような?
関ヶ原の合戦では生き抜いた小早川秀秋ですが、最期は発狂して亡くなったという説もあるようです。
立て看板は「竹矢来(たけやらい)」を説明しています。
竹矢来とは、竹を縦・横に組み合わせて作ったバリケード。
一見、すぐ突破できそうだけど、関ヶ原古戦場の石田三成陣で見た竹矢来は先が鋭くとがっていて、とても危険な感じがしました。
先端恐怖症の人には耐えられないかも。
そして奥には石田三成の盟友である大谷吉継が。
自害寸前の大谷吉継。と思われる。
彼は病を患って顔におできができて、常に白頭巾をかぶって顔を隠していたというけれど、この像にはないのね。
隣の僧侶は誰???脚色なのか史実なのか!?
あまりによくわからなすぎてとにかく写真だけ撮っておくことに。
大谷吉継は豊臣秀吉にかわいがられ、秀吉主催の茶席で茶碗におできの膿が入ってしまい、次の人が嫌な顔をしたときにも関わらず、秀吉自らその茶を飲んだという。
また、大谷吉継の病が癒えるように祈祷を行ったりと特別待遇。大谷吉継は秀吉の隠し子ではないか?という説もあるそうです。
奥に座っているのが小西行長。手前は平田宗応。
小西行長は豊臣秀吉の部下で西軍の将。
北天満山に約6,000の兵を率いた行長は、開戦と同時にのろしを上げ、西軍に戦いが始まったことを知らせたといいます。
小早川秀秋の裏切りにより総崩れ。
キリシタンだったゆえ、自害は許されず、最期は石田三成と同じく六条河原で斬首されました。
ここは笹尾山のふもとと思われる。
石田三成と同様に滋賀県の人に愛されている島左近。
なぜかここではすっこけてます。
島左近は重傷を負ったらしいけど、これがそれを表しているのであろうか?
「治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」と言われるほどの優れた武将だったとか。
戦に負けて自害した島左近だけど、大谷吉継同様にその首は見つからなかったそうです。
石田三成、島左近ともに彦根城のひこにゃんのように「いしだみつにゃん」「しまさこにゃん」という猫のゆるキャラがいるくらい、現代の近江の人々に愛されている武将です。
関ヶ原ウォーランド編 続く