あともう一息。三成陣跡の展望台がはっきり見えてきました。
ハイペースで登り始めて約5分で到着。5分とはいえ、けっこうきついぞ。
ここから戦況をうかがっていたのかなぁ。
笹尾山一帯の石田隊約6,000名は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、島左近の指揮のもと死闘を繰り広げました。
左の 写真は石田三成陣から全体を眺めたときの解説版。右側がその続きです。
左の写真の向かって左側の山は桃配山。
桃配山ふもとの大きな赤い軍が東軍の徳川家康軍。
その左のほうには司馬遼太郎「功名が辻」に出てくる山内一豊軍などがいました。
中央の平地の部分には同じ東軍の本多忠勝や「井伊の赤備え」で有名な井伊直政軍が。
写真の右隅の下にちょこっとだけ見えるのが石田三成陣があった笹尾山で、笹尾山の左下に島左近軍が描かれています。
島左近って三成のすぐそばにいたんだなぁ。
右側の続きの写真。
石田三成の陣のある笹尾山、ふもとには西軍の島津軍がいます。
画面奥の松尾山の上にいるのが小早川秀秋軍です。
戦況は西軍に有利だったものの、石田三成軍があげた総攻撃の合図の狼煙(のろし)に同じ西軍の小早川、毛利軍は応じず静観。
停滞していた戦況を変えたのは徳川家康陣から小早川秀秋に向けて放たれた「東軍への寝返り」を催促させた銃声。
それに慌てた小早川秀秋が西軍の大谷吉継軍の背後から攻撃。
平地にいる西軍が次々と東軍に寝返り、大谷吉継は自害。島左近軍も健闘はしたものの、島左近は銃弾を受けて討ち死にしたといわれています。
西軍の敗色が濃くなった頃、唯一戦い続けた島津軍は、なんと徳川軍を突っ切って敗走したといいます。
で、これがその「笹尾山」の石田三成の陣から眺めたところ。
「大一大万大吉」の旗の文字が揺らめいています。
関ヶ原についてもっと事前に勉強していけば、ここからの眺めはきっと違った印象に映るのでしょう。
勉強していけばよかった・・・。
中央が平地なので、たぶん奥の山は小早川秀秋のいた松尾山だと思うんだけどなぁ。
左、真ん中、右と続き写真でどれも石田三成陣の展望台からのものです。
左側の写真に映る左から南宮山、その手前の小高い丘のようなところが徳川家康陣の桃配山、右奥が小早川秀秋のいた松尾山、その手前の右端の丘のような山が宇喜多秀家、小西行長のいた天満山だと思います。
真ん中の写真は、松尾山と思われる山を中央に配置して撮った一枚。
この平地で何千もの兵が戦ったのね。
右側の写真は、右横の丘のような山、もしくはその奥が大谷吉継陣があったところかな?
ここらへんは山が多くてよくわかりませんでした。
「遠いようで近い」「近いようで遠い」という、戦をするにはちょうどよいくらいの距離感というのが感想です。
それぞれ、たがいの陣が見え、出方もわかったのでしょう。
展望台を正面から撮影。
明治になってからの話だけど、政府の軍事顧問だったドイツのメッケル少佐は、関ヶ原合戦の陣形図を見て、即座に西軍の勝利を断言したそうな。
鶴が翼を広げ、敵を包みこむような理想の包囲陣だったそうです。
その読みの通り、当初は西軍が有利でしたが、それは誰も裏切らないことが前提のお話。
さすがの三成も残念ながら人心掌握術には長けておらず、裏切り続出で戦局が変わってしまいました。
当時はこんな展望台なんてなかったと思うし、時代劇にあるような「周りに幕を張って陣をはった場所」と思われる陣跡は山のもうちょっと奥だけど、周りに旗があるこの展望台は、雰囲気がよくわかって面白いです。
桃配山や他の陣跡にも行ってみたいな。
●笹尾山 石田三成陣跡
住所:岐阜県不破郡関ヶ原町関ヶ原
Tel:0584-43-1112
JR東海道本線 関ヶ原駅 から徒歩約20分
グルメ編に続く