学校建築探訪 青山学院大学 登録有形文化財と消えた名建築

2023年1月に南青山に行ったついでに青山学院大学の建築を見に行ってきました!
青学のあったエリアは1894年の明治東京地震1923年の関東大震災1945年の太平洋戦争中の空襲により失われた建物が多く、そのたびに新たな建物が造っているのだけど、もしすべてが残っていたらとんでもない建築博物館になっていた!
箱根駅伝で一躍注目されるようになった青学を建築史とともに見ていきます。

青山学院大学へ

渋谷駅からも表参道駅からも歩いて10分くらいのところにある大学。いろんな学校と合併したり分かれたりを繰り返していて歴史は複雑だけれど、ルーツを遡ると最も古いものは明治7年(1874年)にできた「女子小学校」で、大学としての成り立ちは主に男性生徒が通った東京英和学校女子生徒が通った海岸女学校東京英和女学校から始まっています。ずっと渋谷にあったわけでは無く、同じクリスチャン系の明治学院大学(現在は白金)、立教大学(現在は池袋)と同様に、築地にあったことも。明治初期の築地は外国人居留区があって、来日したキリスト教の宣教師や教職者も集まって、最先端の学問のメッカだったんです。現在の築地を散策すると「○○大学発祥の地」という碑があります。

さて、青学へ。写真は国道246号沿いにある青山学院大学正門。
実はワタシは大学部の卒業生でして、かつて厚木にあったキャンパスに2年、渋谷のキャンパスに2年通っていました。

青山学院大学 正門
青山学院大学 正門

正門を入ってすぐ右にある創研ビルに埋め込まれている(?)ウェスレー像。「ウェスレーの前でね。」とよく待ち合わせに使ったものだ。

青学はキリスト教のなかでもプロスタント系の宗派「メソジスト」で、このジョン・ウェスレーは18世紀にイギリスでメソジストを興した人らしい。在学中はまったく気にしてなかった。今になって興味が出てきて、不思議なものだ。

カトリック系の大学って同志社大学の彰栄館有終館(どちらも重要文化財)明治学院大学のチャペル明治学院記念館(どちらも歴史的建造物指定)など赤レンガで造られているものが有名だけれど、青学には赤レンガを感じさせる建物はありません。唯一、青キャン(青山キャンパス)を囲んでいる塀がレンガっぽいけどこれはタイルなんじゃないかな。
青学にある古い建物でも大正時代に建てられていてしかもコンクリート造りで、味気ないなぁと、あまり興味をそそられなかったんだけど、建築について調べるようになってヴォーリズ建築にハマるようになっていったら、実は青学にもかつてヴォーリズ建築があったことを知ってびっくり。2008年に間島記念館ベリーホールが国指定登録有形文化財(建造物)になったこともあり、コロナで入場を受付中止していた間島記念館内の公開が再開したので、建物散策をしてきました!

 

登録有形文化財 ベリーホール

まずはベリーホール。昭和6年(1931年)の完成当時は神学部校舎でした。現在は本部棟となっていて、在学中も一度も入ったことなかったな。

青山学院大学 ベリーホール
旧新学部校舎 ベリーホール

 

青山学院大学 ベリーホール
事務局になっているベリーホール

3階建ての建物だけど南側に1階だけの建物、北側に礼拝堂が付いているというアシメトリーの建物。ところどころにある装飾がおしゃれなんだけど、正面には「盾」の紋章のようなものが刻まれている。

青山学院大学 ベリーホール
校章?ではないよな?

これは在学中からずっと謎で、青学の校章は「盾」をモチーフにしているのだけど、幼稚園から大学まですべて似てはいるものの異なっている。青学のメディアのコラムにこの謎の文様について考察した記事があるので詳しくはこちらから。
謎の校章「アオガクタイムトラベラー」

青山学院大学 ベリーホール
ドーム状になっている天井

ベリーホールの入口の天井はリブ・ヴォールド天井でーム状になっている。

青山学院大学 ベリーホール
ベリーホールに併設されている礼拝堂

南側には礼拝堂が備え付けられていて、さすが旧神学部校舎といったところ。
礼拝堂の正式名称は「チャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂」というらしい。在学中はここに礼拝堂が併設されていることを知りませんでした。学生時代にもっと建築について興味を持っていればなぁ。中に入るチャンスもあったでしょうに。

そして今回、あらためて行きたかった理由がこのベリーホールの設計者はJ.H.ヴォーゲルで、ヴォーリズ建築事務所に所属していた!ということを知ったから。ただ、滋賀県の近江八幡にあるハイド記念館に行ったときもヴォーリズ設計事務所に依頼した経緯とかよくわからなかったんですよね。ヴォーリズと青学の関わり合いについては最後に記載します。

ベリーホールは間島記念館と同様に関東大震災後の復興校舎として建てられたもので、その名は震災後の募金活動に尽力した元神学部長のA.D.ベリーにちなんでベリーホールと名付けられたそうです。なお、この礼拝堂にあるパイプオルガンは、昭和7年(1932年)製で、ドイツ・ヴァルカー社製としては現役で使用される日本最古のパイプオルガンだそうです。うわぁ。見てみたい!

青山学院ベリーホール
完成年:1931年
設計者:J.H.ヴォーゲル原案+清水組
工法・構造:鉄筋コンクリート造3階地下1階建
様式:ネオ・ゴシック風
主なタイトル:登録有形文化財(建造物)
見どころ:南側に1階建ての建物、北側に礼拝堂を備える
住所:東京都渋谷区渋谷4-2-5 青山学院大学構内
Tel:-
営業時間:一般開放していない 外観のみ見学
アクセス:JR渋谷駅、東京メトロ表参道駅から徒歩10分。

登録有形文化財 間島記念館

ベリーホールのすぐそばに建っているひときわ目立つ建物が間島記念館。1929年(昭和4年)に間島弟彦氏の寄付により建設されました。当初は図書館だったのだけど、現在は隣に図書館が造られたのでキリスト教関係の資料や学校関係の資料を展示する青山学院資料センターが2階にあり、そのほかは事務所としても使われています。

青学の中で最もゴージャスな建物で、古代ローマ神殿やギリシャ建築のような装飾が見事です。

青山学院大学 間島記念館
資料館になっている間島記念館

設計・施工は清水組。清水建設の前身ですね。
建てられたのが1929年なのだけど、大正12年(1923年)に関東大震災が発生する前は立教大学の前身の学校の校長をしていた宣教師かつ建築家のJ.M.ガードナーが設計した「弘道館」が建っていたのだけど、震災で崩れてしまい、この間島記念館が建てられたのです。

青山学院大学 間島記念館
ギリシャ建築のようだ

建物全体だけではなく、2階のバルコニーにのみコリント式の円柱が立っていて、ペディメント(切妻部分の三角のやつ)を支えた古典主義が一部が入っている。震災で崩れてしまったガードナーが設計した「弘道館」もその名前とは想像ができないギリシア式な感じで、その写真も資料として展示されていました。

内部の資料は撮影できないのだけど、建築関連資料もあり、明治と大正の2度の震災や空爆の影響で貴重な資料は焼失しちゃっただろうに、少ないけれどおもしろいものがありました。

青山学院資料センタ- 見どころ

  • 日本のキリスト教禁止政策資料の中では「キリスト像が内側に貼り付けられた鎧」が珍しい!
    この位置は「逆さ貼り付け」になっちゃうのだけどそれでよいのか!?と思ってしまった。
  • マニア寸前!明治から昭和初期にかけて建てられた失われた建物の建築模型
    コンクリート建築しかない現在の青キャン。でも当時は赤レンガ建築もあり、多種多様な様式が取り入れられていた!
  • 東京駅を設計した辰野金吾が高等学部校舎の「勝田館」を造っていた!(ただし関東大震災で5年で倒壊。もったいない!)

関東大震災で辰野金吾設計の「勝田館」が5年で倒壊になった写真とか、あぁ。切ない。
太平洋戦争中の様子や空襲を受けた後のズタボロの建物や廊下で玉音放送を聞く生徒の姿とか。戦時中は特にキリスト教系列の学校ということで、立場も厳しかったのではないでしょうか
明治学院や同志社大学の一般展示よりは点数は少ないですが、失われた建物の在りし日の写真は建築史としても面白くて、うわぁ。この建物が全部残っていたらとんでもない建築博物館になっていただろうなぁ。と、驚きの30分でした。

詳細は青山学院大学資料センターのサイトをご覧ください。

青山学院 - Aoyama Gakuin

青山学院公式サイトです。青山学院は、キリスト教信仰にもとづく「建学の精神」により、一貫する「青山学院教育方針」をもって、…

青山学院大学 間島記念館
完成年:1929年
設計者:清水組
工法・構造:鉄筋コンクリート造3階建
様式:ネオ・ルネッサンス
主なタイトル:登録有形文化財(建造物)
見どころ:2階のコリント様式の門柱とペディメント
住所:東京都渋谷区渋谷4-2-5 青山学院大学構内
Tel:-
営業時間:月~金 9:30~17:00(入館は16:30まで)、土:9:30~13:00(入館は12:30まで)
青山学院資料センターの展示ホール公開時間帯のみ
休業日:祝祭日、日曜日
アクセス:JR渋谷駅、東京メトロ表参道駅から徒歩10分。

大学1号館・2号館はアントニン・レーモンドの設計!

帰ってきて改めて各建物について由来を調べたのだけど、実は現存の建物に驚きがありました。
正門を入ってすぐのところにある大学1号館と2号館。古い建物だなぁ。石造りなみに冬は寒いし。と在学中は思っていたけど、なんとこれが原案はアントニン・レーモンドの設計だったらしい!
・・・はぁ!?
そんなの聞いてないんですけど!?
1923年の関東大震災によりそれまでの建築計画が一転。復興の全体プランをアントニン・レーモンドに依頼したとのこと。
アントニン・レーモンドの設計案に対し、清水組が外観を変更したり、丈夫なものとして補正を入れたそうだけど、工学博士の長野宇平治に依頼して工事の相談役になってもらったということで、ここにきてまたすごい名前が出てきた
長野宇平治といえば、台湾総督府のコンペで採用された人で(その後、かなり改変されたけど)、辰野金吾の弟子として数々の名建築を作り上げた人。
アントニン・レーモンド+清水組+長野宇平治
なんとも贅沢なコラボレーション。
大学1号館と2号館は正門からのメインストリートを挟んで両脇に建てられているんだけど、「古いけど明治・大正というわけではない」、かといって「昭和の建築で新しくもない」という微妙な立ち位置でノーマークでした。しかも、きれいに外観修理されていてさらに新しい時代の建物のようになっている。ただ「暗い」という印象しかなかったので「あれ?こんなんだったっけ?」と素通りしてしまった。
今度行くときはちゃんと写真も撮って観察します。

青学の消えた名建築たち

そして今回、調べ直しをしたら建築好き寸前の建物が青学には存在していたことがわかりました。
写真は間島記念館の入口に掲載されていたもの。

青山学院大学 間島記念館
かつて存在していた建物の模型展示がある
  • 左:勝田館模型 辰野金吾設計 大正7年(1918年)
  • 中央:ガウチャー・ホール模型 J.M.ガードナー設計 明治20年(1887年)
  • 右:神学科校舎模型 明治19年(1886年)

これらの建物は関東大震災で倒壊したり半壊し、今は無くなっているのがとても残念!

築地の居留地を中心に始まった青山学院大学ですが、明治14年(1881年)の明治東京地震にて建物が倒壊。明治16年(1883年)に渋谷に移ってきて少しずつ建物が増えていきます。

ヴォーリズも青山キャンパス計画にからんでいた!

立教学院史研究 第7号 キリスト教学校における大学設立問題とキャンパス計画 鈴木勇一郎』によると、大正3年(1914年)に「青山学院拡張計画」の実行が正式に決定。神学教育以外の一般教育課程が増えるにつれ、明治39年(1906年)に竣工したガーディナー設計の新ガウチャーホールでは対応できなくなり、抜本的なキャンパス計画の作成を依頼したそうです。そんな中で計画の作成を依頼したのがヴォーリズ事務所!ここで接点ができたか!
しかもこの鈴木勇一郎氏の論文によると、ヴォーリズ事務所が作成した青キャンの全体プランの鳥瞰図が存在していた!しかも青山学院資料センターが所蔵しているとな!展示には無かった!
いやいや、論文読みながらひとりで興奮してしまった。2015年に青山学院資料センターで青学とのヴォーリズの関わり、そして外観除いて取り壊しが決定したヴォーリズ設計の大丸心斎橋店についての展示があったのだけど、1週間ちょいの期間で気づいたら終わってた。この図も展示されたのかしら。(論文にもその鳥瞰図が掲載されています。)

さて、この鳥瞰図によると正門からまっすぐ伸びた道路に対し、最も奥に講堂を配置し、正門から続く道沿いに建物を建て、奥の建物の周りに密集して立てさせているところは現在の青キャンの建物配置と通じるものがあるのだけど、このヴォーリズプランがどの程度まで正式なものとして採用されていたのかはわかっていないそうです。しかし論文によると

しかし1916年5月17日発行の『青山学報』では、ヴォーリズプランとほぼ同じ配置図が「青山学院将来計画図」として紹介されており、このときには学内でヴォーリズプランの採用が公式のものとみなされていたおとがわかる。

立教学院史研究 第7号 キリスト教学校における大学設立問題とキャンパス計画 鈴木勇一郎 より

ということなので、当時の計画をベースに建物が配置されていて、時代が進むごとに空きスペースを使ったり拡張して建物を築いていったのでしょう。このあとに関東大震災が発生し、復興計画でアントニン・レーモンドが全体設計をするのだけど、正門からまっすぐ伸びた道路の突き当たりに建物を置き、まわりに配置するというヴォーリズプランからはさほど離れていないと思われる。

なお、ヴォーリズ事務所でこのキャンパス計画作成を担当したのはベリーホールを設計したJ.H.ヴォーゲルなのだけど、神学部寄宿舎(ウィルソン・ドーミトリー)はヴォーリズが設計しています。現在は存在していないのが残念。そして「ウィリアム・メレル・ヴォーリズの建築 P.65 ヴォーリズが関わったミッション・スクール」の表には竣工が確認されている建物一覧の青山学院欄には「講堂・チャペル」に「寄宿舎」とともに「○」が付いていたのだけど、どの「講堂」を指しているかはまだよくわからなかったのでもう少し調べてみようと思います。

辰野金吾まで登場!

辰野金吾といえば東京駅や日本銀行本店を設計した人物。まさかの青学でも設計を担当していました!
「勝田館」という赤レンガと白い花崗岩を使った「辰野式」の建物が有名だけど、青学大の前身である東京英和学校の卒業生でもある勝田銀次郎氏の寄付によって高等学部校舎が建設されました。辰野金吾は多くの建物を設計したけど学校建築の数は少なく、それもなんで青学!?しかも1つだけ!?と疑問だったのだけれど「立教学院史研究 第7号 キリスト教学校における大学設立問題とキャンパス計画」によると、勝田氏の強いプッシュによって辰野金吾の設計事務所である辰野片岡建築事務所に依頼したそうで、キリスト教学校の建物の設計を手がけたのはこの勝田館のみとのこと。

あぁぁぁ~!関東大震災がなければぁぁぁ!

関東大震災によって被害を受けて壊されてしまったことから1918年から1923年の5年間しか存在していなかった幻の建物。ミッションスクールの建物を生粋の日本人が手がけたのは当時としては珍しく、今も残っていたら文化財クラス間違いなし!だったのに残念ですね。

まとめ 青学を設計したすごい設計者たち

ということで、建物を中心に紹介してきたので時代変遷がバラバラになっていたけどざっくりまとめるとこうなる。

  • 明治7年(1874年) ドーラ・E・スクーンメーカー女史が津田仙の助力を得て「女子小学校」を麻布に開校
    スクーンメーカーは大学女子寮の名前にもなっていました。津田仙というのは日本初のアメリカへの女史留学生として派遣された津田梅子の父で、学校教育にとても熱心な人でした。ここで津田仙も絡んできたということで興奮(笑。
  • 明治10年(1877年) 築地明石町に移転。
  • 明治16年(1883年) ジョン・F・ガウチャーの寄付により青山に土地を購入。築地より移転。「東京英学校」から「東京英和学校」に改称。
  • 明治21年(1888年) 「東京英和女学校」開校。
  • 明治27年(1894年) 明治東京地震発生。「東京英和学校」を「青山学院」と改称。
  • 明治39年(1906年) 立教大学の校長だった在日米国人のアマチュア建築家であるJ.M.ガーディナー設計により新ガウチャーホールが建てられる。翌年に同じくガーディナー設計の大講堂(弘道館)が建てられる。
  • 大正5年(1916年) ヴォーリズ事務所が青山キャンパスの全体プランの鳥眼図を作成。承認される。
  • 大正6年(1917年) ヴォーリズにより神学部寄宿舎(ウィルソン・ドーミトリー)が建てられる。
  • 大正7年(1918年) 辰野金吾設計の勝田館(高等学部校舎)が建てられる。
  • 大正12年(1923年) 関東大震災発生。新ガウチャーホール、大講堂(弘道館)、神学部寄宿舎、勝田館が壊される。
  • 昭和元年(1926年) アントニン・レーモンド設計の1号館と2号館が建てられる(ただし清水組長野宇平治により改変)
  • 昭和4年(1929年) 間島記念図書館(現間島記念館)が清水組の設計・施工で建てられる
  • 昭和4年(1931年) ベリーホール(神学部校舎・現本部建物)がヴォーリズ事務所J.H.ヴォーゲル清水組の設計で建てられる。

たかだか57年だけど、2度の大きな震災が発生しながらも数々のビッグネームが連ねられていて、あぁ。これがすべて残っていた姿を見たかったなぁ。誰かVRで開発してくれないだろうか

 

平成以降の新築建物

ここからは平成以降のいわば「新築」な建物。

青山学院大学 ガウチャーホール
ガウチャーホール内には礼拝堂がある

ガウチャーメモリアルホールがあった場所は礼拝堂がありました。あらまぁ。こんな高層ビルを建てちゃって。確か鉄筋コンクリートの低層の建物で木の扉だったんじゃないかなぁ。基本的に教会は「開かれた場所」であるべきであり、解放されていることが多く、訪れた土曜日は12:00頃だったと思うけどパイプオルガンの演奏をしていて自由に出入りできました。

 

青山学院大学 ブックカフェ
おしゃれになったな。ブックカフェ

えぇ!?こんなにおしゃれになったんだ!というAGUブックカフェ。確か昔はこの自動ドアの向こうはフリースペースのようになっていて春の新生活シーズンには教科書を売るブースが出ていたり、左側の壁に沿ってコピー機がずらりと並び、試験前にはノートのコピーのために大行列でした。青学の本屋、10%オフで売っているのでよくここで本を買ったな。テレビ英会話のテキストや文庫本、漫画とかね。

そして以前はテニスコートがあった付近は17号館という新しい建物が建ち、1階はラウンジに。そう。広いようで狭い青キャン。ただ座ってしゃべる場所というのが無かったんだよね。外でお茶しながら・・・だと学生には高いし。
新しい建物を建てつつ、古い建物も残してくれて嬉しい。

さらにこんなエリアもあった!

青山学院大学 パウダールーム
パウダールームなんてできているぞ

女子学生のみ利用ができるパウダールーム。そんなもんまでできてるんかい!
学生証をかざして入るのでセキュリティも万全。中には着替え用のブースもあるそうな。すごいな。

さらに体育館の奥には学生と関係者向けのフィットネスクラブもあるようで、うわぁ。在学中にできてほしかった!今の学生、うらやましいぞ。

今回は行かなかったけれど学生食堂もきれいになっているのであろうか。当時も近くの会社員がよくお昼に食べに来ていたけど、厚木キャンパスからの伝統で「サークル席」が暗黙の了解であったりするので、内情を知っている人間ほど入りづらい
でも青学の学食は当時からうまかったんですよ。おしゃれなメニューというよりは、男子学生が喜ぶがっつり料理だったけど、お気に入りのメニューはカツ丼でした!これがうまかったんだよな。流行り始めたばかりの油そばも初めて食べたときからハマってよく食べてました。


ということで、残っていればビッグネーム揃いだった青学の建物。(めちゃくちゃ統一感なかっただろうけど。)
次回に行く場合は、アントニン・レーモンド設計の1号館、2号館もちゃんと撮影したいと思います。

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青山学院大学 間島記念館
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