2014年5月に行った山陽の城めぐりの旅。山口県 萩城編の続きです。
萩城の天守台へ登ってみる!
天守台への登り口です。 一段高くなったところに登ってみると
石がごろごろごろ。
この石は天守の付櫓の礎石だそうな。
天守そのものに入口があったわけではなく、付櫓があって、そこに入口がありました。
そして付櫓からは多門櫓がつながっていた様子が明治期の写真に残っています。
天守台に登ってみると・・・
現在の萩城天守跡はちょっとした展望台気分。
晴れた日はお弁当持ってきてここでおにぎり食べたいなぁ。
天守跡には基礎石がしっかり残っていました。
地下があったようにはみえない。「穴蔵構造」ではなかったというのがわかる。
同じく天守台の基礎石。けっこうでかいぞ。
そして天守台から眺めた指月山。
もし五重だったという天守の建物があったとしたら、指月山の山頂と目線が一緒くらいになったかもしれない。その目線の高さで見てみたかったな。
そして天守台の付櫓あたりから内掘を眺めてみた。パノラマ写真でどぞ!
萩城は天守跡も見どころだけど、それ以上に天守跡から内堀を眺めるというのも素晴らしいのよ。
同じく天守跡から眺めた内掘り。正面にある突き出たところにはどんな建物がたっていたのでしょうかね。
こちらも天守台跡から。登って歩いてきた石垣の先にあるのは極楽橋。
天守台からの眺めを堪能したので、次のスポットに行きますかね。
その途中にあった石碑。
萩城跡の碑で、大正8年(1919)11月に公爵であった毛利元昭によって建てられたもので、萩城の来歴を記したものだそうな。
1919年といったらヴェルサイユ条約が締結された頃じゃないの。
※ヴェルサイユ条約・・・第一次世界大戦の時に連合国とドイツの間で締結された講和条約です。
毛利家は公爵として後世に残っていったのね。
案内板によると・・・
萩城は毛利輝元によって築城され、260年の間、周防と長門の統治を行ったわけだけれど、第13代藩主敬親の時代には幕末のてんやわんやを治めるためには場所が不便ということで藩政の場を山口に移したそうな。それが文久3年(1863年)4月のこと。
その後の萩城は、藩主の居館から諸役所までどんどん取り除かれ、明治6年(1873年)には政府から萩城の払い下げ命令が下り、翌年には天守や櫓などすべてが解体されたそうです。
歩いていると志都岐山神社がありました。
なんでここに神社があるんだ?と思ったんだけど、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られているんだそうな。
大河ドラマ「花燃ゆ」の撮影もここで行われたそうです。
そして「東園」。
萩城の二の丸にある回遊式庭園。お茶屋も建てられていたそうな。
最後の見どころスポット「潮入門跡」に向かいます。
<続く>
ぽちっとひと押し。応援お願いします♪
ぽちっとひと押し。応援お願いします♪