三渓園 内苑① 秀吉マニアが築いた建築テーマパークへようこそ

三渓園とは

明治末期から大正時代にかけて製糸業・生糸貿易で財を成した横浜の実業家・原三渓が築いた日本庭園。
原三渓は益田鈍翁と並ぶ名品コレクター。コレクションだけでも5,000点くらいあったそうです。
原三渓が作ったこの庭園は三渓の私邸がある家族のみ立ち入ることができるプライベートエリアの「内苑」一般に公開していた「外苑」の2つに分かれていて、総面積は約175,000平方メートルで東京ドームざっくり4個分!
京都や鎌倉などから集められた建物は、国の重要文化財建造物が10棟横浜市指定有形文化財建造物の3棟を含めて合計17棟もあり、それらが日本庭園のまわりに配置されたまるで建築テーマパーク

原三渓は豊臣秀吉好きだったこともあり、秀吉関連の書状やコレクションをしていて、そういった資料のみではなく、

  • 秀吉が京都に築いた聚楽第の遺構と考えられていた建物を移築してきたり
    (後に紀州徳川家の別荘建築だと判明)
  • 秀吉の母親の長寿祈願のための建物を移築してきたり
  • 秀吉の正妻のねねが眠る高台寺の観月台橋に似せた屋根付きの橋を作ったり

など、超絶な秀吉マニア!

秀吉マニアによる秀吉マニアのための建築テーマパーク。
三渓園は歴史好きなら一度は行っておきたい公園です。

三渓園 園内案内図
三渓園 園内案内図

 

三渓園へ

訪れたのは2022年9月25日。根岸駅から15分ほどバスに乗り、やってきたよ三渓園。
5年の改修期間を終えた臨春閣の特別公開に行ってきました!
台風明けの晴天のこの日、9月末だというのに暑かった。

入場料を払って中に入ると、まるで京都や奈良に来たかのような光景!

三渓園 庭園
三渓園 大池

ところどころベンチが置かれていて、藤棚の下は座って休憩できるようになっているので暑い日差しを避けて家族連れが休んでいたり、のどかだなぁ。

三渓園
三重塔と大池

正面に三重塔が見える。
この池や山は自然地形ではなく、池を作るために地面を堀り、その土を盛って山を築き、その上に三重塔を配置するなど、原三渓は地形を作り変えて完璧な風景を作り上げました。

三渓園の開園時間は9:00。臨春閣の公開は10:00からだけど並ぶと思ったので足早に臨春閣へ向かいます。

 

御門

建築年:江戸時代 宝永5年(1708年)頃
移築年:大正時代

横浜市の有形文化財になっている「御門」
三渓園の「内」と「外」を分けた門で、ここから先が「内苑」で、原三渓の家族のみが入れるエリアでした。

三渓園 御門
横浜市有形文化財 御門

この門は宝永5年(1708年)頃に作られた門で、京都の西方寺にあったものを移築してきたもの。
門の先にある臨春閣が当初は豊臣秀吉が建てた桃山時代の建築「聚楽第」の遺構だと考えられていたことから、この門を「桃山御門」または「桃山御殿門」と呼んでいたそうです。確かに、薬医門形式なので格式は高く、その通称で呼ばれたとしてもまぁ、納得できる。

しかし話はここで終わらず。聚楽第だと思って手に入れたこの屋敷は、原三渓が亡くなった後の戦後には紀州徳川家の別荘「巌出御殿」と解釈が変わり、現在は御門と呼ばれています。
近づいてみるとわかるけど、なかなか立派なたたずまいです。

 

臨春閣

建築年:江戸時代 慶安2年(1649年)
移築年:大正6年(1917年)

御門から入って内苑へ。門から入った突き当りにあるのが臨春閣の正面玄関です。

5年間をかけて保存修理工事が行われ、檜皮葺屋根と柿葺屋根がすっかり美しくなりました!
見学開始時間は10:00からだったのだけど、この日は9月末だというのに猛暑並みの暑さ。台風明けで公開期間1週間の間は台風が直撃していて、唯一の青天日ということで朝から長蛇の列。私は9:20頃から並び始めたのだけど、10分繰り上げての見学開始でした。

臨春閣
重要文化財 臨春閣

原三渓が大阪の豪商から臨春閣の購入を打診されたとき、前述したとおり聚楽第の一部だと考えられていたので、移築当初は通称「桃山御殿」と呼ばれていました。
現在は和歌山県岩出市の紀ノ川沿いに建てられた夏の別荘だった「巌出御殿(いわで御殿)」と考えられています。

三渓園に大正6年(1917年)に移築されたタイミングで「臨春閣」と名付けられました。

今回の改修は屋根の吹き替えがメインでしたが、配布された資料によると

檜皮葺は檜の皮を(檜皮)、柿葺きは薄く割った木の板(柿板)を少しずつずらして並べ屋根を形作り、竹釘やかな釘で打ち止める技法です。今やユネスコの無形文化財にも登録された世界が認める日本の匠の技です。

臨春閣 配布資料より

ということで、今ではとても貴重な技法で手間がかかる。こりゃー5年かかるのも納得だわ。

臨春閣 玄関の屋根
桐紋?

玄関の屋根の上の瓦には桐紋が。豊臣家の家紋の桐紋とは上部の中央の葉っぱの部分が異なるようだけど、「桐紋=豊臣家」と判断して、この建物は豊臣秀吉が建てた聚楽第だと考えられたのだろうか。

雁行に第一屋から第三屋の建物が配置されていて、いかにも御殿建築といった感じ。
はぁ。美しい。 さすが「東の桂離宮」と言われるだけのことはある。

美しい雁行の配置にほれぼれしていたのだけど、なんと、移築の時に周りの建物や風景と調和するように3つの棟の配置を真反対に作り変えたとな!
(でも内部の装飾は元の建物にしつらえられていたままで残しているそうです。)

建てられた時代から推測すると、江戸幕府8代将軍の徳川吉宗も訪れていたんじゃないか!?と妄想が膨らむ。
今まで訪れた「御殿」のイメージとは異なっていて、「絢爛豪華」というより「数寄屋風で粋なおしゃれな造り」なんだけど、廊下は人がすれ違うことができないくらい狭かったのが印象に残りました。お付きの人の人数も通常とは違って少ないだろうし、別邸だとこのくらいの狭さでいいのかー、と実感。

臨春閣の内部の撮影はできないのですが、三渓記念館で内部の写真の展示があるということなので行ってみました。

 

三渓記念館 臨春閣内部の展示

三渓記念館は原三渓に関する資料や原三渓が収集した美術工芸品や豊臣秀吉ゆかりのお宝が展示されています。

今回の特別展は臨春閣に関する展示だったので、満足のいく展示でした。
さらに、特別展の写真家の田中克昌さんが撮影した臨春閣の内部の写真はSNSでの拡散OKということだったので、紹介します。

右:第一屋から第ニ屋へ。第一屋の「花鳥の間」の波の透かし彫り欄間が美しい!
臨春閣は紀州徳川家の夏の別荘だったこともあり、デザインが涼し気を演出している。現在は黒ずんでいるけれど、かつては銀箔などで装飾されてキラキラしていたのでは?と考えられています。

左:第ニ屋の「住之江の間」は狩野山楽作と伝わる「浜松図」があるお部屋。障子のデザインがおしゃれ。住之江の間の手前にある「波華の間」から住之江の間は一段高くなっていて、位の高かった人物が坐する間だったようです。

 

第二屋 住之江の間の障子。細工が細かい!

 

臨春閣 第三屋の階段入口
花頭窓型の出入口

第三屋 「次の間」の花頭窓型の階段入口。斬新なデザインだな!
江戸時代の階段には珍しく、緩やかでカーブした階段であると「ぶらぶら美術・博物館」の三渓園の回で放送されていました。

これを逆側からの2階から降りてきた時はこう見える。これまた斬新だ。

臨春閣 第三屋
二階から降りてきたところ

この花頭窓がある一階の「次の間」と最も奥にある「天楽の間」の間の欄間には笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)と高麗笛(こまぶえ)という雅楽で使う楽器の本物が金具だけで取りつけられていました。宴会が盛り上がってきたらすぐ演奏できるじゃん!

 

そしてよほどのことが無いと入れない二階には最もな部屋が。

臨春閣
百人一首色紙が飾られた部屋

第三屋二階 百人一首の色紙が貼られた「村雨の間」。これまた粋でオシャレだわ。
第二屋の一階にも百人一首の色紙が飾られた部屋があるのだけど、天井の装飾も含めてこちらの部屋のほうが圧倒的に素晴らしい!
三渓園のホームページにあった資料によると、

天井は朱漆の格天井、格間には網代と杉の柾目板が市松状に収められています。小壁には百人一首を記した色紙が貼り交ぜられており、記した人物の名前や位から作られた時代が推定されています。

格天井になっていて、格式が高いのは間違いない。

臨春閣の二階には部屋が2つあり、階段を登って最初の部屋が「次の間」。その奥にこの村雨の間。
部屋の位置、そして格天井からもこの部屋が最も格式が高いということがわかる。

なお、2階では正座で座ると小山の上に建てた三重塔が良く見えるそうです。
座らないと見えないというのが絶妙な三重塔の配置!

 

三渓園
波華の間から「亭樹」を眺める

こちらは屋根付きの橋「亭樹」高台寺の観月台橋に似せて作られました。
豊臣秀吉マニアであった原三渓。臨春閣の部屋や庭からお気に入りの建物が見えるように建物が配置されているんです。

三渓園
第二屋 琴棋書画の間

狩野探幽作の「琴棋書画(きんきしょが)」が描かれた襖と縁側。襖には文人のたしなみである琴と将棋と書画が描かれていました。
臨春閣の襖絵や障壁画は主に狩野派によって描かれていました。現在は複製画になっていて、本物は三渓記念館で保管されています。
写真にはないけれど、第ニ屋から第三屋の間の「繋ぎの間」の廊下は十二支が百人一首に出てくる人たちのような衣裳を着ている板絵があって、これは本物だそうです。鼠が法師の衣裳をまとっていたり、蛇が十二単を着ていたり、ユーモラスで面白かったです。これはぜひ現場で本物を見てもらいたい。

臨春閣の内部の雰囲気が伝わったでしょうか?

三渓記念館には、原家の歴史や原三渓の人柄がわかる資料だけでなく、豊臣秀吉マニアである秀吉関連コレクションがすごい。秀吉の手紙太閤脇息淀君の和歌が書かれた扇子伝淀君所有の琵琶とか、いったいどうやって手に入れたんだ!?
金と名物(名品)は持つべき人のところにまわってくるのねぇ。

臨春閣を大阪の豪商から買い取る際の手紙のやりとりも展示されていて、それがまた人間味があっても面白かったです。

 


臨春閣の建物の話に戻り、外観の紹介です。

臨春閣を眺める

臨春閣の建物は外から見ても素敵。2022年の9月末はまだ真夏暑さだったけれど、紅葉になったら本当に美しいだろうな。

屋根付きの橋「亭樹」と臨春閣
屋根付きの橋「亭樹」と臨春閣

左の橋は「亭樹」豊臣秀吉の正妻であったねね」が眠る高台寺の観月台橋に似せて作らせた屋根付きの橋です。臨春閣から見る亭樹はとても雅なり。

 

三渓園
旧天瑞寺寿塔覆堂、聴秋閣、臨春閣

木々に囲まれていて判別しづらいけれど、左から旧天瑞寺寿塔覆堂、中央よりやや左にかすかに見えるのが聴秋閣、そして雁行型に配置された臨春閣。
この3つが眺められるのは臨春閣の池の反対側のこの位置からのみ。

  • 旧天瑞寺寿塔覆堂:秀吉が京都の大徳寺に母親の長寿祈願のために造った寿塔を納めた建物
  • 聴秋閣:二条城にあった三笠閣と呼ばれていた楼閣建築

ひぃー。 どちらもすごい建物です!

 

旧天瑞寺寿塔覆堂

秀吉マニアによる原三渓コレクションの中でも異色のコレクション「旧天瑞寺寿塔覆堂」。原三渓が三渓園に移築してきた記念すべき初めての建物です。

旧天瑞寺寿塔覆堂
重要文化財 旧天瑞寺寿塔覆堂

建築年:桃山時代 天正19年(1591年)
移築年:明治38年(1905年)

なんと、豊臣秀吉が京都の大徳寺に母親の長寿祈願のために建てさせた寿塔(生前墓)を治めるための建物だそうな!

そんなものも集めてしまったかい原三渓!

驚きの逸品ですが、さすが秀吉。桃山時代らしい細工が超絶ゴージャス

柱などはかつてはきらびやかに彩られていたそうですが、今は風化してよくわからない。それでもこの彫り物のクオリティを見れば、当時は目の前にしたら拝みたくなるような出来栄えだっただろうと想像できます。

破風の下には天女が!まるで平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩たちみたいだ。
扉に描かれている天女はアンコールワットのデヴァター(女神像)にも似ている。

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Preah Khan
旧天瑞寺寿塔覆堂
桐紋が五重かさねになっている!

この位置からだと豊臣家の桐紋が五重かさねに見える!

この覆堂があった天瑞寺は大徳寺の寺院の一つだったのだけれど、明治のはじめに廃寺になりました。原三渓が移築したことにより、桃山建築の絢爛豪華さを味わうことができるので、原三渓にありがとうと言いたい。
よくぞ移築してくれた!そしてよくぞ残ってくれた!


とまぁ、臨春閣をはじめとして、重文クラスの建物コレクションのすごさに圧倒されたのですが、内苑にはまだまだ見どころのある建物が。その前に、原三渓が過ごした屋敷や茶室など、大正時代に「新築」された建物や原三渓の私邸を紹介します。

>>原三渓が過ごした屋敷や茶室、まだまだあります

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